玉虫色と日本人
日本人の宗教観のいい加減さは世界一であると思われる。
一つの家のなかに、神棚があって、仏壇もある。
お葬式は例えば真言宗のお寺で行い、クリスマスになれは子供にプレゼントをせがまれ、正月の初詣には神社にお参りする。
12月24日のクリスマスイプにケーキを買って帰宅する人も、4月8日のお釈迦様の誕生日への関心は低い。
無論なかには敬虔的なクリスチャンや仏教徒もいないことはないが、大部分の日本人は宗教に関してはこだわりの少ない人が多い。
しかし目を外国に向けると、宗教性については、厳恪な一神教徒が多いとくに目立つのは、キリスト系、イスラム系、ユダヤ系の信徒の一徹さである。
自分で信じているだけなら、問題はないが、周囲の人にまで、信じ込ませようとする折伏行為は、宗教にあまりこだわらない日本人にとっては迷惑なこともある。
歴史的にみても、伝道師とか宣教陣とかが命を賭して自分の信じている宗教を広めようとする行為は、ものすごいエネルギーであり、宗教を持たない人にとっては、理解に苦しむこともある。
今、イラクで自殺的なテロが頻繁に起こっている。
これを旧日本軍の特攻隊と同列のものと見る人もいるが、私は宗教性という点から見て、明らかに異なる行動と見ている。
人類の歴史から見ると、多神教がはじめにあり、一神教を信じるようになったのは、旧約聖書にあるように、イスラエルの人々が最初であろう。
その旧約聖書に、今のキリスト系、イスラム系、ユダヤ系の宗教はみんな根ざしているらしい。
独裁者フセインのいなくなったイラクでは、同じイスラムのシーア派とスンニ派が血で血を洗うような抗争に入っている。
また、デンマークでの祖ムハンマドを題材にした風刺漫画がイスラム教徒の怒りを買い、あちこちで暴動騒ぎになっている。
宗教観の曖味な多くの日本人が理解できないのは、どうしてそんなに深く一つの神を信ずるようになれるのだろうということであろう。
日本でも第2次世界大戦中は、天皇を神とあかめ、自爆的な戦闘行為を行っていた。
しかし、それは歴史的には比較的短い期間であり、負けるはずのない神国日本が敗戦したことにより、多くの人はあっさりと宗旨替えをし、新しい「民主主義」に早々に適応していった。
塩野七生さんの『ローマ人の物語」を読むと、古代ローマも今の日本と似た多神教であったそうだ。
しかも、領土を拡張していっても、占領下の人々には彼ら固有の宗教を信ずることを認めていた。
なんともおおらかである。
無宗教の私がよくわからないのは、その古代ローマが何でキリスト教に支配されるようになったかである。
人間は、生まれたときは精神的には文字どおりの無垢である。
それが、長ずるに従い、いろいろなことを学び、知恵がついてくるが、そのなかに宗教観も入ってくる。
つまり、良くも悪くも教育である。
それは家庭教育から始まり、学校教育と友人同士間の情報交換が大きな影響を及ほす。
アラーを唯一神として信ずるイスラム教は、ムハンマド以来千数百年であるが、宗教理念だけでなく、日常生活や人間関係のあり方、国家の政治まで規定している。
つまり毎日の生活に、深く根ざしており、そうした環境で赤子の時代から育てられ、さらに学校教育を受けると、動かしがたい宗教観カ神経系のなかに形成されるのだろう。
日本人の生活習慣を振り返ってみると、宗教的な色彩が窺えるのは正月、お盆、結婚式、葬式くらいのものである。
それも、正月は神式、お盆は仏教、結婚式や葬式はいろいろである。
つまりこだわりが少ないのである。
EUの国々はキリスト教国であるので、どの国もキリスト教に根ぎした祭事が多い。
近代国家になってからは少なくなったとはいえ、日本人から見れば、月に2ー3度の祭事があり、そのたびに仕事を休むことも少なくない。
しかしそのEUも、イスラム教国であるトルコが加入することには、すんなりとイエスとはいえない状態にあるらしい。
これは、日常生活の習慣がキリスト教とイスラム教では異なることが、一つの壁となっているのであろう。
日本でも、イスラム教徒が、人混みのなかで突然小さいカーペソトを広げて、メッカの方向に向かって礼扞を始めるシーンに遭遇することがある。
頭では理解できるが、とまどうのが事実である。
モラル、あるいは基本的な人間としての考え方は、乳幼児からの家庭教育の段階で自然と形成される。
これは言語について考えればわかる。
マザータングというのは母親から自然に教わる言葉である。
文法も文字もない。
言葉として、そして身振りを通して、人としての基礎形成は、白紙のような脳に直接書き込まれるものである。
子供は無垢の状態で生まれる。
無垢とは、仏教では煩悩を離れて汚れのないこと、一般的にも心身の汚れていないこと、うぶなことを意味する。
実際に子供の脳神経系は生まれたときは、ほとんど情報が入っていないから、この無垢の状態にある。
誕生後に降り注ぐ膨大な量の情報が脳神経系を発達させ、言語をはじめとした、人間形成をもたらす。
それは神経細胞間のネットワーク形成といえる。
生まれたときの赤子の脳には、神経細胞はたくさんあるが、神経細胞間の連絡が少ないので、豆腐のように柔らかい。
情報が入るに従い、神経細胞間の連絡、つまりネットワークが増加して、鞘付きの神経線維が増えるため、脳はしだいにしっかりとした堅さに変化する。
神経系の大枠の形成は3歳で完成する。
その頃に、身体の運動に必須の錐体外路系も完成する。
錐体外路系の重要な要素である黒質にも黒い色素がしつかりと沈着し子供の動きも滑らかになる。
そして思考の素地となる前頭葉の形成は7歳くらいまでに完成する。
幼少時代、少年、青年時代には、環境から教育を含めた無数の情報が脳に降り注ぎ、それぞれ固有の神経細胞のネットワーク形成をもたらしものの考え方の基盤となる。
そのなかで宗教観も形成される。
日本では、受験戦争は良くないとか子供のしつけが悪いといわれる。
しかしわれわれの気がつかないところで、日本人の子供の生育環境は欧米やイスラムの国とは大きな違いがあり、そこに日本人独特の宗教観の曖味さも刷り込まれるらしい。
日本人の曖味さは宗教観だけではない。
日本人の態度の曖昧さは外国では有名である。
一つには、「Yes」と「No」の使い方が欧米人と逆であることによる。
例えは、「あなたは今度の旅行に参加しませんね?」と聞かれた場合、参加しない日本人は「はい」と答える。
それを聞いた欧米人は、「はい/yes」だから参加すると理解する。
一方、参加しない欧米人は「No」と答える。
私も米国に留学中はこの「Yes」と「No」の使い方で苦労した覚えがある。
しかし日本人の暖味さは、それほど単純なものではない。
宗教観だけでなく、万事について多様性を容認することが多い。
国際学会で持論を発表すると、場合によっては対立する考え方とぶつかることがある。
そんな場合、欧米系の学者は徹底的に相手の考えをつぶしにかかるが、日本人の場合は討論が穏やかである。
場合によっては、医学系の学会では玉虫色の結論などになることもある。
何かを決めなければならないときは、まず根回しをする。
会議のときは、ほぼ方向が決まっていることが少なくない。
トラブルがあると、小さいことなら、すぐに「すみません」と謝ってしまう。
そんなところに、日本人の国民性がよく現われている。
今西錦司は日本の霊長類学の創始者であるが、生物進化において、ダーウインの自然淘汰に対抗して「棲み分け」理論を提唱した。
生物は互いに競争するのではなく、住む場所を分け合い、それぞれの環境に適合するように進化するというものである。
この理論の是非はともかく、極めて日本的な考え方と思われる。
生物の存続にとって重要なのは多様性である。
生命誕生から37億年、その間の環境の変化は筆舌に尽くしがたいものであったが、それを乗り越えて生き物がこのように繁栄してきたのは、生き物の多様性があったからである。
人の生き方も多様性に富んでいる。
現代のように、交通手段が発達した状態では、異なった生き方、考え方を持った人々が交流するのは、日常茶飯事のこととなっている。
しかし、残念ながら、地球の至るところで、異なった文化、異なった宗教を持つ民族間の紛争が絶えない。
そんなときに、玉虫色の日本人独特の考え方は、寛容度の高い平和的な解決方向を示しているように思える。