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ウィーン会議

第2次世界大戦まで日本人の平均寿命は50歳を超えなかった。 
その後の医学の進歩、環境改善で、半世紀あまりの間に30歳前後延びた。 
今では、80歳代のひとが隣近所にたくさんいて、100歳を超える老人も全国で2万5千人を超える。 
平安時代や江戸時代でも80歳を超えるひとがいることはいたが、極めて少数であった。 
従来、地球上の人類の年齢構成は若齢層の幅が広く、歳をとるほど幅の狭くなる富士山のような構造が普通であった。 
この形だと、経済的にも数の多い若年層が数の少ない老年層を支えるのに無理がない。 
 
しかし、最近どこの国でも若年層の増加が鈍くなり、老年層の増加が目立ってきた。 
総務省の6月30日の発表では、日本は世界一の少子高齢化国になったそうである。 
65歳以上の高齢者人口は21.9%(2.600万人余り)となり、逆に15歳未満の子供の人口は13.6%(1,700万人余り)と世界最低水準に落ち込んだ。 
65歳以上の高齢者人口はEU諸国の平均では2005年には16.6%で、日本よりは低い。 
 
しかしこのまま行くと、2030年にEUでも25%近く、日本では30%近くになると予想される。 
80歳といえば、傘寿といってお祝いしたが、25年における80歳以上の人口は日本では4.9%(600万人余り)、EUでは4.1%である。 
それが2030年にはそれぞれ12.1%(1,400万人余り)と7.2%に増加する。 
ちなみに、2004年の統計では90歳以上の日本人は1万人を超えているが、100歳以上の老人は2万人余りである。 
言い換えると、80歳以降のひとが90歳代になるのは20%前後であるが、90歳を超えて100歳に達するのは2~3%くらいということになる。 
 
私は昨年の3月、65歳で定年となり、国立大学を退職した。 
65歳は国公立系では長いはうであるが、裁判官は70歳と聞いている。 
また、私立大学では67歳や70歳は珍しくない。 
しかし、一般のサラリーマンの定年は55歳から60歳である。 
江戸時代の武士は40歳代、遅くとも50歳代で、息子に家督を譲って、隠居の身分となった。 
それは平均寿命が50歳を超えていなかった頃のことである。 
 
戦後60年あまりの間に、平均寿命が30年も延びたが、定年の年齢は15~20年くらいしか延びていないことになる。 
平均寿命が50歳以下であれば、定年前に病で倒れるひとが多いことになるが、今の平均寿命は80歳前後であるから、定年を迎えてから平均20年の余生があることになる。 
この20年をどのようにするかは、個人のみならす、国のレベルでも大きな問題である。 
私の大学時代の友人は医師であるから、ほとんどの場合は大学を退職したあと、医師として再就職しているが、これは特殊なケースといえる。 
私の高校時代の同級生は50人くらいで、医師となった2人のうちの1人は開業しているので、定年はない。 
同級生の大部分はサラリーマンで、全員が第2、第3の職場も退職して、「悠々自適」の生活を「楽しん」でいる。 
括弧のなかにいれたのは、本当に「悠々自適の生活を楽しんで」いるかどうかは疑問だからである。 
 
ごく一部を除いては、卒業後、あまりつき合いがなかった。 
しかし歳を取るにつれて、病気に罹るひとが増え、職業柄、専門の医師を紹介することが多くなり、いろいろなひとの背景が知らず知らずのうちにわかるようになった。 
 
もともと病気がちだったひとは、病院通いで忙しくしている。 
勉強好きなひとは、あちこちのカルチャーコースを取って、ときどき難しい質問をして、講師を困らせることを楽しんでいる。 
定年を迎えても多くのひとは、知的にも、体力的にも十分動ける状態にある。 
その知カと体力を生かして、充実した第2の人生を楽しめれば言うことはない。 
しかし、一般的なサラリーマンが定年退職した場合、年金だけの収入だと、それまでの生活を維持するのは難しく、暮らしに不安を感しる人も少なくない。 
 
ちなみに、EUの定年退職の平均値は2004年の統計では60.7歳である。 
高齢化社会はドイツ、イタリア、フランスなどのほうが日本より早くから進行している。 
EU内では、民族の多様性、経済格差、移民問題が高齢化社会と重なり、日本以上に問題が複雑化している。 
2006年6月のはじめにウィーンで医学系と社会系の合同の老年シンポジウムがあった。 
これまで、バラバラであった人口統計学者、経済学者、法学者、医学関係者が同じテープルに着く場を設定した会議であった。 
寿命が延びることは医学的には成功といえるが、人口統計学、経済学、法学的にはいろいろな新しい課題をもたらす結果となった。 
それらの課題を医学関係者が理解し、また、医学における進歩や課題を医療関係者以外の学者に理解してもらうことは、従来なかった試みである。 
 
年々増加する老年層が年金のみに頼って暮らしたら、よほどのことを考えない限り、数の少なくなる若年層にとって維持するのは難しくなることはだれにでもわかる。 
医学的にいえば、単なる平均寿命の延長だけ考えていては意味がない。 
健康寿命の延長が課題なのである。 
どこの国でも健康寿命は平均寿命より5~10年短いのである。 
言い換えると、ポックリ亡くなるひとは少ない。 
ほとんどが、何らかの闘病生活、最悪の場合は、寝たきりで永らえているひとが少なくないのである。 
 
課題はこの老人の不健康期間を短縮することである。 
それは同時に老人医療の出費を減らすことになる。 
法律的にみると、年齢差別が間題となる。 
高齢者でも健康なひとはたくさんいる。 
 
しかしかなり特殊な技術がないかぎり、定年退職後の再就職にはEUでも楽には行かないらしい。 
今、健康そうに見えても、病気にかかるリスクは多いから、雇用者は高齢者をさけるのが普通である。 
少し前まで普通であった性差別のようなものである。 
 
しかし健康管理さえしっかりしていれば、かなりの労働力を高齢者に期待できる。 
この健康管理は未病の発見を対象にしなければならない。 
未病というのは、東洋医学の言葉で、本人は気が付かないが、放っておけば病気になる状態を意味している。 
 
ウィーンの会議でも、長生きして、長く働くこと(Live longer and work longer)が、これからの高齢化社会において必須条件と提唱された。 
長く働くためには健康基盤が必要条件であり、不健康期間を短くする工夫を医学界が考えなければならない。 
人口統計学者には健康の必要性はわかっているが、なかなか入り込めない分野である。 
また、逆に医学界の研究者は自分の領域にかかりきりで、高齢者の生活問題までは踏み込めない。 
 
ウィーンにおける会議では、人口統計学者、経済学者、法学者、医療関係者等の間で、強制的ながら討議の場を持つことができた。 
法学領域の参加者は、私の免疫力の話を聞いて、面白いしこれから有用であるといってくれた。 
私が高齢者においては、免疫力の情報が健康管理のうえで必須であり、それに加えて免疫力回復の重要性を伝えたからである。 
これからの高齢化社会をうまく乗り切るためには、医学、生物学だけでなく、老年社会学、経済学、法学、人口統計学など真の意味のinterdisciplinary(学際的)な領域を開発することが必要であろう。 
対話を重ねて、実際的なシステムづくりが必要な時期に来ている。