健康と長寿の秘薬
中国統一国家の範を作った秦の始皇帝が不老不死の仙薬を求めていたことは、有名である。
不老不死は無理としても、いつまでも健康で長寿を願うことは、新春祈願の中のトップ3に入ることであろう。
事実、健康という言葉をキーワードにすれば、効き目のわからない怪しいサプリメントでも、結構売れて商売になるらしい。
日本人の寿命は平安時代以来、40~50歳代であり、第二次世界大戦まで、50歳を超えていなかった。
それが、戦後60年で、約30年前後延長した。
その秘訣を探ると、それは抗生物質と栄養改善であるといえる。
死因で見ると、戦前までは、肺炎、結核、大腸炎などの感染症がトップ3にある。
その感染症が抗生物質と栄養改善により激減したことが、戦後の日本人の寿命延長の主な背景である。
蛋白摂取量から見ると、戦前の日本人一般の食生活は貧しいものであった。
20世紀に入る1900年の始まりでは、1日5g程度であり、昭和初期の1930年でも1日20gである。
その後の戦争の混乱期には1日10g近くまで下がったが、戦後の1960年には25gに至り、現在は50gを超えている。
つまり、この100年で、蛋白摂取量は1例前後になっている。
充分量の蛋白質は幼小児期の免疫系の発達および青年期の免疫系の維持にとって必須の条件である。
今の日本は飢餓とは程遠い状態にあるが、世界的に見ると、2007年から2008年の間1億人以上の人が飢餓線-ヒにあったと報告されている。
飢餓状態になると子供の身体や知能の発育が遅れ、免疫系の発達が不十分なので、感染により死ぬことが多くなる。
世界的に見ると人の死因のトップはいまだに飢餓とそれに続く感染症なのである。
生物にとっての餌はいつも潤沢とは限らない。
餌がなくなる飢餓は地球上のほとんどの生物が何億年もの間、直面してきた間題であり、人類にとっても同様である。
したがって、飢餓に対して生命を守るために、遺伝子レベルで何らかの対応がたくさんとられているはすである。
しかしその仕組みは長い間ベールに包まれたままであった。
それが、ここ1~2年の間に遺伝子レベルで少しずつわかってきた。
一方において、先進諸国で問題になっているのはカロリー過多・飽食であり、メタポリック症候群という「病名」があるくらいである。
肥満は糖尿病、高血圧、がんの発症の背景になるというデータも出ている。
したがって、カロリー制限が健康維持に必要であるということは、今ではほとんどの人が認識するところとなった。
昔からいわれている腹八分が健康保持の秘訣であるということである。
そのカロリー制限が健康によいということは、感覚的にはわかるが、科学的根拠については、まだ十分なことはわかっていない。
カロリー制限の効用を実験的に最初に確かめたのが、米国のコーネル大学のクライド・J・マッケイ博士である。
ラットを用いて、カロリー制限をすると寿命が延びることを報告したのは1935年である。
この実験ではラットを用いて、自由摂取量の60%に飼料を抑えた。
60%制限であるから、腹六分であるが、その結果、やせてはいるが寿命が延びることがわかった。
1970年代になって、マウスやラットを使って、カロリー制限をすると寿命が延びるという実験、および自己免疫病の発生が抑制されるという報告が相次いだ。
実験室のラットやマウスは狭いケージの中に飼われていて、十分な運動はできない。
野生のラットは餌を求めて1日5~10kmは運動する。
しかしケージ内のラットは、そうした食物を求めて運動することなく、好きなだけの大量の餌を摂取する、いわゆる飽食状態である。
そのラットの飽食状態がカロリー制限により改善されれば寿命が延びても不思議はない。
そういう考えに立つと、カロリー制限による寿命延長や疾患発生の抑制は、ラット・マウスに特有な現象である可能性も否定できなかった。
それでは、霊長類のサルを使ったらどうであろうか、それを長い年月をかけて見る実験が米国で行われた。
栄養と寿命の研究をしている米国のメリーランド州にある国立加齢研究所のジョージ・ロス博士らのグループは、より人間に近いサルでカロリー制限の実験を行っている。
サルを2つのグループに分け、一方には普通に食事を与え、もう一方にはカロリーを3割ほど制限した食事を与えて、経過を観察した。
カロリー制限した食事にはピタミンやミネラルなどを付加し、普通の食事と同じ栄養素が配合されるようにし、単純にカロリー過多の有無の影響を調べたわけである。
その結果、カロリー制限をしたサルは、善玉コレステロール(HDL)が増え、心臟血管系の病気や糖尿病が減ったと報告した。
ウイスコンシンの国立霊長類研究センターでも、サルを用いて栄養制限研究を20年以上の年月をかけて行っている。
サルも人間と同じように年と共に糖尿病、がん、心血管病の発症が増加するが、カロリー制限により、いずれの病気の発症も減少することがわかった。
人についても、ボランティアを募って6ヵ月から12カ月間のカロリー制限の実験が米国で行われた。
その報告によれば、BMIの減少、血圧の低下、空腹時の血糖値の低下、血液中の炎症マーカーの低下などが明らかに見られ、健康によいことは間違いないらしい。
カロリー制限がどうして寿命を延ばすのか、あるいは病気の発生を抑制するかについては、いくつかの説があるが、仮説の域を出ていない。
例えば、カロリー制限による活性酸素の減少、血糖代謝の改善、動脈硬化の改善などがある。
活性酸素については、前にここのコラム「運動と健康維持」で紹介した。
習慣的な運動により、抗酸化素の産生が活性酸素を上回るバランスとなり、寿命が延びるというスウェーデンの疫学的データである。
我々も、ラットを用いて、カロリー制限に連動負荷を加えると、加齢に伴う免疫力の低下が遅延するという実験を行ったことがある。
また、カロリー制限は一種のストレスであり、それが細胞あるいは生体の防御反応を亢進し、結果として老化に対抗するシステムが動き出すという説明もある。
そのシステムを解析するには、哺乳類のような高等動物ではなく、体制の単純な動肋のほうが解析しやすい。
寿命は生物に共通のパラメーターであるが、幸いにして、ハエ、線虫、酵母などの生物でもカロリー制限の効果が見られることがわかった。
こういう体制の単純な動物の寿命は短いし、遺伝子の数も少なく、遺伝的な解析が容易になる。
その中で、浮かびあがってきたのが、細胞の成長や増殖をリン酸化酵素を含むTORシグナル伝達経路である。
TOR(target of rapamycin)というのは、ラバマイシンという免疫抑制剤の標的となる蛋白で、そのTORを含むシグナル伝達を抑制することがカロリー制限と同じような効果をもたらすことがわかってきた。
ラバマイシンというのは、石の巨像で有名なイースター島で発見された放線菌の作る抗生物質である。
臨床的には臟器移植の時の免疫抑制剤、そして腎臟がんの治療などに使われていたものである。
これを酵母、線虫、ハ工に投与すると寿命が延びるのである。
逆に言えば、それにより、ラバマイシンの標的分子がはっきりしてきたといえる。
昨年の秋、ジャクソン研究所のハリソン博士がネイチャーに発表した論文は、哺乳類であるマウスにラバマイシンを投与したら、マウスの寿命が延びたという報告である。
この実験の面白いところは、ラバマイシンを普通に経ロ投与すると、消化管内で消化され、長持ちしない。
そこで、特殊なカプセルに入れて投与すると徐々に吸収され効果が長持ちする。
この投与方法の開発に時間がかかり、第1回の実験が始まった時は、実験に用いる予定のマウスは600日齢になっていた。
マウスの600日齢というのは、人の60歳くらいに相当する。
その初老の時期から投与を始めたにもかかわらす、寿命延長効果が見られた。
実験は、ジャクソン研究所、ミシガン大学、テキサス大学の3ヵ所で行って、はほ、同様の結果が得られている。
実際に、ラバマイシンの標的となる酵素のリン酸化を見ると、明らかに抑制されていることもわかった。
ハエ、線虫、酵母などと同じように、TORシグナル経路の抑制が寿命の延長に影響を与えている可能性が高い。
この抗生物質の投与がマウスの寿命を延ばすなら、人でも期待できるという報告であるが、ラバマイシンは免疫抑制剤であるから、そのままでは人への応用は考えられない。
それならば、ラバマイシンの標的となっているTORシグナル経路にあるリポゾーム蛋白酵素であるS6蛋白をノックアウトされたマウスはどうなるかという論文が、昨年の秋にサイエンスに報告された。
結果はほぼ期待どおりであったが、性差があり、寿命の延長が見られたのはメスだけで、オスでは見られなかった。
そのメスで見るかぎり、同じ餌を与えているにもかかわらず、コントロールに比べて、体重は少なく、体脂肪も少なく、血中のグルコースレベルも低い状態であった。
また、免疫機能についても、加齢変化の進行が遅く、若さが保たれていたという。
この免疫機能の低下が起こらなかったということは、ラバマイシンの投与とは異なる点である。
このTORシグナル経路というのは、線虫から哺乳類に至る全ての生物に共通に見られる飢餓に対抗する一つのシステムである可能性がある。
飢餓の始まりの状態ではTORシグナル経路が抑制され、病気になりにくいシステムが稼動し、生命を守ろうとするのであろう。
人にとって、食は大きな楽しみの一つである。
TORシグナル経路の蛋白に絞って、機能を抑えるような物質ができれば、それはまさしく秘薬であり、人への応用も期待できるかもしれない。
カロリー制限を行わなくても、その秘薬により加齢に伴う病気の発生が遅れ、寿命が延長するようになるかもしれない。
そんなことを期待できる論文が、ここ半年くらいの間に数編発表された。