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IPSと再生医療

再生といえば、すぐ思い出すのはイモリの足の再生である。 
切断した足がまた生えてくるということは人間にとっては、驚異的な出来事である。 
 
切断された部分の近くにある神経細胞と上皮細胞が、特殊な蛋白を分泌することで、新たな器官や足を生み出す基となる芽細胞を刺激し、芽が出るように組織が盛り上がり、切断後1年余りかかるが足が再生される。 
ヒトを含む哺乳類の場合には、無論、手足の再生は起こらない。 
 
しかし、細胞レベルで見れば、ヒトでも再生はごく普通の現象である。 
皮膚、胃腸管の粘膜、骨髄では、毎日、細胞の生え代わりが起こっている。 
皮膚粘膜では、表層の細胞は少しずつ剥げ落ち、新しい細胞が下のほうから補充されている。 
 
たとえば、皮膚の切り傷が治るのは、真皮の線維組織と表皮細胞の再生による。 
骨髄では毎日2000億個の赤血球が作られている。 
赤血球の寿命は120日前後だから、骨髄の赤芽球増生による補充が必要である。 
白血球の中の好中球は、感染に直接対抗する細胞であるが、その寿命は1~2週であり、この好中球も骨髄から常に補充されている。 
従って骨髄について云えば、常に再生している組織であり、移植が可能である。 
 
薬の副作用で骨髄からの補充が起こらなくなることがある。 
そうすると、好中球減少症(無顆粒球症)となり、重症の感染症になるから恐ろしい。 
体の臓器の中では肝臓には再生能力がある。 
親から子への生体肝移植も再生が起こるから出来ることである。 
骨折時には骨組織の再生もごく普通に起こる。 
 
一方、心臓、肺、腎臓、脳、筋肉などは再生が起こらない臓器・組織である。 
今、注目されている先端技術による再生医療は、こうした普通では再生の起こらない臓器の機能が低下・消失した時に、その機能を補うものとして期待されている。 
先端技術にはクローン作製、臓器培養、多能性幹細胞(ES細胞、iPS細胞)の利用、自己組織誘導の研究などがある。 
先端技術で使うクローン作製とは、遺伝的に同一な細胞あるいは個体を作る技術を言う。 
平面的な細胞培養や、1種類の細胞からなる組織を培養する技術はかなり開発されている。 
たとえば、皮膚の表皮細胞、粘膜の上皮細胞はシート状に培養され、すでに自家移植に使われている。 
 
しかし、普通の臓器や器官は形も機能も異なる数種類の細胞からなり、それを3次元的に培養する臓器・器官培養の技術はまだ十分ではない。 
多能性幹細胞の見本は受精卵で、体の中のすべての細胞の基となる。 
その典型例が、受精卵からとったES細胞であり、そして後述するiPS細胞である。 
 
再生といえば若返りのイメージもあり、希望の持てる言葉である。 
しかし、ヨボヨボの老人がピチピチの青年に若返るということを期待するのはしばらく無理であろう。 
今、考えられているのは臓器(器官・組織)の再生である。 
人の死を見ると、心、肺、腎などの限局した臓器の機能不全が原因になることが少なくない。 
その死を救うのは臓器移植しかないことが少なくないが、移植臓器の入手は難しい。 
そんな時に、先端技術による再生臓器があれば、より利用しやすいということになる。 
 
遺伝子操作技術の進歩により、からだの一部の細胞があれば、核内にある遺伝子情報を用いて、同じ個体をつくることが可能になってきた。 
その世界初のこころみが、1996年にイギリスで行われたクローン羊、ド-リーであった。 
クローン羊ドーリーの成功後、馬や牛のなどの大型動物でもつぎつぎとクローン動物が誕生した。 
ド-リーの場合、まず羊の胚細胞の核を取り除き、そこに体細胞の核を移植することによって誕生した。 

からだを作るどの体細胞の核の中にもその個体の全ての遺伝子情報が詰まっているが、体細胞では、ごく一部が発現し、例えば、皮膚表皮細胞では、皮膚細胞として機能分化した状態になっている。 
つまり、核内の遺伝子情報は機能的には休眠した状態になっている。 
その体細胞の核を生殖細胞である胚細胞の細胞質が周りにある状態にすると、核内の遺伝子情報が休眠から覚めて、遺伝子情報が読まれて、受精卵の胚細胞と同じようになり、細胞分裂を繰り返し、大型の哺乳類の個体になる。 
この個体の遺伝子は細胞を提供した元の動物と同じであるので、クローン動物といえる。 
ヒトの場合にも論理的には可能であるが、クローン個体の作製は禁じられている。 
しかし、この先端技術を使えば、心臓、肺臓などの生命維持に直結した臓器の作製が期待できる。 
つまり、臓器移植のソースとして使える可能性がある。 
 
 
そんなときに、日本発で出てきたのが、iPS(InducedPluripotentStemcells)という体細胞から多能性幹細胞を作る先端技術である。 
一つの受精卵が分裂を繰り返し、200種類以上のからだの細胞に分化する。 
一度分化して臓器や組織の細胞になると、元には戻れない。 
皮膚の細胞から肝細胞や筋肉の細胞を得ることは不可能である。 
核の中にはその個体のすべての遺伝子情報があり、すべての臓器・器官・組織を作り上げる情報があるが、 
発現するのは分化した細胞の機能の一部のみである。 
その常識を覆したのが、iPS細胞である。 
iPS細胞は、分化の最終地点にある細胞(たとえば皮膚細胞)を用いて樹立した多能性幹細胞である。 
このiPS細胞はいろいろな細胞に分化することができる。 
ES細胞は受精卵を壊して作るために、倫理的に問題があるが、皮膚の細胞を使うのであれば問題ない。 
繰り返すことになるが、全ての細胞は核の中に皆同じ遺伝子情報を持っている。 
 
しかし、一度分化して特殊な細胞になった細胞が、もとにもどって、別の細胞に分化することはできないと考えられていた。 
山中教授は特殊な遺伝子とウイルスを使って、皮膚細胞に入れることにより、皮膚細胞の時間のねじを巻き戻し、多能性幹細胞を樹立することに成功したのである。 
この情報にマスコミは飛びつき、再生医療がすぐにでもできるような報道をした。 
 
しかし、実際にできたiPS細胞はウイルスを使っているので癌細胞になる可能性もあり、すぐには人に応用できるものではなかった。 
しかし、皮膚細胞が多能性幹細胞になるという事実を示したことは、iPS細胞の研究に火をつけ、燎原の火のごとく、世界中に研究が広まり、日本でも10数か所で研究が行われている。 
しかし、ごく最近になって、遺伝子の働きを制御するRNAの断片を細胞内に導入することにより、iPS細胞の作製に成功したという報告が米科学誌「セル・ステムセル」の2011年5月号に発表された。 
報告したのは大阪大学のチームである。 
マウスの胚性幹細胞(何の細胞になるか決まる前の細胞)に強く発現するRNAの断片を発見し、そのうちの特定の3種類を組み合わせて、分化した体細胞に導入した。 
その結果、効率は悪いが、一部がiPS細胞になったというのである。 
この方法では、ウイルス由来の遺伝子を使っていないので、がん化する可能性は少なく、従来のiPS細胞に比べて、より安全といえる。 
いずれにしても、ヒトに使える安全なiPS細胞が利用できるようになるのは、そんなに先のことではないであろう。 
 
 
脳死状態のヒトからの臓器移植の時に問題となるのは、HLAの形が合わないと拒絶されることである。 
それでも強行するとすれば、免疫抑制剤を使うしかない。 
しかし、iPS細胞は臓器の必要な個人から細胞を採取し、iPS細胞を樹立し、必要な細胞や臓器を体外で作り、移植することになるから、拒絶反応の心配はない。 
仮に、移植を必要とする個体からのiPS細胞が取れなくても、いろいろなHLAを持つ人から樹立したiPS細胞のライブラリーがあれば、その中からHLAの形ができるだけ近いものを選ぶことができる。 
要するに、人体における部品の交換がいまより、ずっと楽になるということである。 
腎臓が悪ければ取り替える、肺が機能しなければ、移植するということだが、そうした部品の交換により、臓器の病的状態は解決されるが、寿命が延びるかどうかはわからない。 
 
問題は脳である。 
大脳の移植は、心臓や腎臓のように簡単ではない。 
脳の一部の細胞、たとえば、パーキンソン病の原因となる黒質の細胞をiPS細胞で作製して脳内に注入するということは可能であろう。 
現にそれに近いような治療は行われている。 
しかし、大脳を取り替えることはできない。 
人格は、大脳の一部の細胞によるものではなく、多数の多種類の細胞のネットワークの賜物である。 
大脳の移植が可能と考える研究者は、ヒトの脳をコンピュ-ターのハードディスクと同程度のものと考えているのであろう。 
記憶などは別の媒体にとっておき、それを新しい脳に移し替えれば可能であると考えているに違いない。 
ヒトの人格は年輪を重ねて形成される。 
脳神経系の発達と外から入ってくる無数の情報が絡み合って作られるものである。 
 
3歳で基本的な大脳の構造はできあがるが、有機的な神経細胞のネットワークができるのは7歳頃と言われている。 
その頃に教育が始まり、周囲環境が複雑に絡まり、人格が形成されるのである。 
もしハードディスクに例えるなら、大容量の大型のものが、何百回もバージョンを変えてやっと出来上がるものであろう。 
医療の歴史からみると、第2次世界大戦後の医療の発達は画期的なものであった。 
その結果、人間の平均寿命は30年以上も伸びたのである。 
これから開発されるiPS細胞を使った再生医療も人類の医療の歴史にとって、画期的なステップの一つになるであろう。 
しかし、寿命の延長というよりは、いろいろな臓器の機能不全が解決され、より快適な老後を送れるようになると期待できる。 
 
 
老化マウスを用いて、iPS細胞の樹立を試みた報告がある。 
若齢マウスからの細胞を使った場合と異なり、iPS細胞の樹立はやや難しいと報告されている。 
老化個体の細胞の核内の遺伝子はメチル化などの修飾を受けているので受精卵や若齢個体の細胞とはかなり異なるからであろう。 
それでも老化マウスの細胞から皮膚組織、骨組織、心臓などのいろいろな臓器に分化する細胞がとれている。 
また、すでに樹立されたヒトの線維芽細胞様の培養株からもiPSの技術でいろいろな種類の細胞が得られている。 
これは再生医学を目指すというより、老化に伴ういろいろなプロセスの解析にも使える技術である。 
この生命現象の解析こそ、将来的な成果につながるものであり、期待するところが大きい。